SSブログ

【摂理の便り】比較しないで、個性で使いなさい(鄭明析牧師の明け方の御言葉より) [摂理の明け方の箴言]

<摂理の御言葉:鄭明析先生の明け方の箴言>
人々も互いに比較して使ったら、個性で使うことができない。
だから、大きな損だ。箸とスプーンも、特徴が違うから、比較できない。
箸では汁物をすくって飲めないから、スプーンとは比較できない。
また、スプーンではおかずを取って食べることができないから、
箸とは比較できない。だから、比較しないで、「個性」で使いなさい。
摂理の便り_比較しないで、個性で使いなさい

摂理の箴言です^^

スープを飲む時に箸を使う人はいません。スプーンを使います。
逆にお寿司を食べる時にはスプーンを使う人はいません。箸を使います。

そのように人も同じです。
箸が優れているのでもなく、箸が優れているのでもありません。
それぞれ個性があり、それぞれ特徴があります。
だからその個性と特徴に合うように使います。

箸とスプーンの場合にはそのように考えることができますが、
人間について見てみると個性で見ることをしないで、
比較している人があまりにも多いのではないでしょうか。

たとえば親は自分の子供のことを個性で見るのではなく、
成績など学業で比較をしたりしているのではないでしょうか。

鄭明析牧師は聖書の御言葉通りに個性をとても大切にしてくださいます。

コリント人への第一の手紙12章12節〜27節
:12)からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。:13)なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。:14)実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。:15)もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。:16)また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。:17)もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。:18)そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。:19)もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。:20)ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。:21)目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。:22)そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、:23)からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、:24)麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。:25)それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。:26)もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。:27)あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。

目で聞くことはできず、耳で見ることはできません。
目は見るのが個性であり、耳は聞くことが個性です。
そのような一人一人の個性を良く見抜いてくださって、
一人一人を適材適所の場所で活かしてくださる鄭明析牧師です。

どちらが優れている、どちらが劣っていると、
人と人を比較するのではなくて、
個性を活かすことがとても大事だということを気付かせてくれた箴言でした。

~~摂理の便り~~
鄭明析先生の明け方の御言葉
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。